朝起きて、昼も近かったので学食へ。家から歩いて1分のところにあります。便利です。
今日のメニューは…
スパニッシュオムレツ、マッシュポテト、、ライス、サラダ、牛乳。
サラダは(別の学食ではメインも)取り放題!
これで2.5ユーロ(約300円)!
味の方はご想像におまかせします。
…カツ丼や牛丼が食べたいです笑
その後近くをぶらぶら散歩。海にはまだ雪が積もっています。
こちらは夜7時半の空。今週からサマータイムになったこともあり、遅い時間でもだいぶ明るくなってきました。
ふぅ。
ではまた、製図室に向かうとします。
2011/03/31
今日の製図室とか
2011/03/30
2011/03/20
ル・トロネ修道院
ル・トロネ修道院 様
お元気ですか。
今回のフランス旅行の最後、3月12日にあなたを訪ねたのが、ちょうど昨日のことのように思い出されます。早いもので、もう1週間も経ったのですね。
今回の旅行ではあなたのご姉妹にもお会いしましたが、僕はあなたに一番心を惹かれてしまいました。(どうかご姉妹には内密に!)
教会堂に足を踏み得れた瞬間の、身を切られるような張り詰めた空気は今も忘れることができません。その横の回廊も息を呑むほどに美しく、何度回っても飽きることがありませんでした。これまで何人もの人が、あなたに心を奪われたのがとてもよくわかります。
どうやったらこんなに美しい空間ができるのか、あなたから直接伺えるといいのですが、人間の言葉はしゃべれないので、想像するしかありませんね。生まれてから800年、あなたと共に、いろいろな物語があったのでしょうね。それが聞けないのは残念です。
それでも、直接は聞けなくてもあなたといるだけで色々な発見をすることができました。宝箱の中にいるような、とても幸せな時間でした。
どんな建築を見に行っても、別れ際は「もうこれっきりで会えないかもしれない…」と思い、いつも少し寂しくなるのですが、あなたにはまたいつか会いに来る気がしています。何回行っても新しい発見ができるでしょうし、雨の日や夏の暑い日も、また全然違った表情を見せてくれるのでしょう?
楽しみにしています。また会う日まで、どうかお元気で。
2011.3.20 佐藤 至
教会堂の奥の小さな出入り口から下に降りれば、そこはため息が出るほど美しい回廊。ごく自然に、かつて修道士たちがそうしたように、ゆっくりと歩き回ってみたくなります。階段を降り、回廊の連続するアーチ模様が生み出す光と影の縞模様をくぐり抜け、
角を曲がり、左手の噴水堂の水音を聞きながら斜路を歩み、
もう一度角を曲がり、
緩やかに進んだ後の階段を上がり切ったところが、さっき教会堂から降りてきた回廊のひとつの辺です。
回廊の4辺の中では一番高い位置にあるこの部分に、洗足式(修道院長が修道士の足を洗う儀式)のための長い石のベンチが設えられています。
回廊の平面形は正確な矩形ではなく、いびつな四角形になっていますが、その絶妙に歪んだ四角形に高さの変化が加わることで、空間的にもシークエンス的にも変化に満ちたえもいわれぬ魅力が生まれています。もともと回廊というのはエンドレスの動線ですが、ここでは回廊から修道士達が雑魚寝していた大寝室に上がった後も、この動線は続きます。
大寝室の小さな出口からさらに数段昇れば、回廊の屋上のバルコニーに出ることができるのです。
バルコニーは広々と明るく、胸のすくような開放感に満ちています。
コの字型のバルコニーは、実際には行き止まりですが、下の中庭に目を転じれば、視線と意識は、下の回廊を巡り始めることになるのです。
もう一度大寝室に戻ると、再び行き止まりのない動線が続きます。そこからは回廊を経由せずに、直接教会堂へ降りていくことができるからです。
もう一度大寝室に戻ると、再び行き止まりのない動線が続きます。そこからは回廊を経由せずに、直接教会堂へ降りていくことができるからです。
こうして歩き回っていると自分がメビウスの輪を辿っているような気分になってきます。ル・コルビュジェはこのように建築の内部を愉しみながら巡り歩くことのできるつくりを「建築的散策路」と名付けましたが、このル・トロネ修道院こそ、まさにその好例だと言えるでしょう。
中村好文・木俣元一、「フランス ロマネスクを巡る旅」より
行き方
パリ・リヨン駅からTGVで約4時間半、Les Arcs Draguignan下車。(直行便は一日一本程度、要確認)
ここから約25キロ。駅前にタクシー乗り場あり。料金は30〜40ユーロ。帰りの車も要予約。
近くの村にはホテルも一軒あるようです。→ Hostellerie de l'Abbaye
2011/03/18
シルヴァカーヌ修道院
セナンクの次に訪ねたのはシルヴァカーヌ修道院。プロヴァンスの三姉妹の中では末っ子にあたります。
祭壇のある側。セナンクではこの面が半円形になっていましたが、シルヴァカーヌではあらゆる装飾を排すというシトー会の厳格主義を徹底して守ったため、(つまり曲線も装飾とみなし)直線的なデザインになったそうです。
教会堂だけ見ても、セナンクとはだいぶ印象が違います。一緒に行った友達曰く、「やんちゃな末っ子」。…なんとなくわかる。こんな風に印象の違う三姉妹にそれぞれキャラクターを充ててみるのも、三姉妹を見るひとつの楽しみかと思います(笑)
三姉妹それぞれにキャラクターがあり印象も違うのですが、シトー会という「親」が同じなだけに、共通している部分があります。例えば、シトー会の建築には部屋の配置や空間の構成に決まった「型」というものがあったらしく、三姉妹はすべてその型に忠実に建てられているのです。
具体的には、各部屋は以下のように配置されています。
このような各部屋の配置構成は、方位の違いはあるものの、3つの修道院すべてに共通しています。にもかかわらず、その印象には驚くほどの違いがある。というか、だからこそ3つそれぞれの違いが際立って感じられる。音楽で言えば、同じ曲でも指揮者が違えば全く違って聞こえるのに似ています。
どのくらい違うかというと…この後に載せるル・トロネ修道院とぜひ比べてみてくださいね。
Abbaye de Silvacane, 1175-1230(教会堂)/1210-1300(修道院諸施設および回廊)
祭壇のある側。セナンクではこの面が半円形になっていましたが、シルヴァカーヌではあらゆる装飾を排すというシトー会の厳格主義を徹底して守ったため、(つまり曲線も装飾とみなし)直線的なデザインになったそうです。
教会堂祭壇。
ここでも他のシトー会修道院と同じく、美しい石積みが(おそらく)当時のまま残っています。
こんな美しい修道院ですが、シトー会がすっかり衰退した後は破壊の危機にさらされました。18世紀末、この修道院は哀れマルセイユ運河建設のための石材になるところだったのです。しかし運河の設計技師が建物や環境の美しさを力説したため、破壊をまぬがれたそうです。シトー会士たちが丹精込めてつくったその優美さが、聖堂を護ったのでした。いい話だ。
こんな美しい修道院ですが、シトー会がすっかり衰退した後は破壊の危機にさらされました。18世紀末、この修道院は哀れマルセイユ運河建設のための石材になるところだったのです。しかし運河の設計技師が建物や環境の美しさを力説したため、破壊をまぬがれたそうです。シトー会士たちが丹精込めてつくったその優美さが、聖堂を護ったのでした。いい話だ。
入り口側を見る。
教会堂だけ見ても、セナンクとはだいぶ印象が違います。一緒に行った友達曰く、「やんちゃな末っ子」。…なんとなくわかる。こんな風に印象の違う三姉妹にそれぞれキャラクターを充ててみるのも、三姉妹を見るひとつの楽しみかと思います(笑)
三姉妹それぞれにキャラクターがあり印象も違うのですが、シトー会という「親」が同じなだけに、共通している部分があります。例えば、シトー会の建築には部屋の配置や空間の構成に決まった「型」というものがあったらしく、三姉妹はすべてその型に忠実に建てられているのです。
具体的には、各部屋は以下のように配置されています。
祭壇は、キリスト教の慣例に従って東を向きます。(セナンクだけは北側を向く)
祭壇を右手に、北側を向く。
写真奥に見えている出入り口から下へ降りれば、回廊に出ることができます。
写真奥に見えている出入り口から下へ降りれば、回廊に出ることができます。
教会堂から降りると、回廊の東側の辺にあたります。
東側には集会室や寝室があります。右に見える入り口がそこに通じています。
東側には集会室や寝室があります。右に見える入り口がそこに通じています。
北側。北側には食堂があります。
食堂。(ル・トロネには残っていません)
回廊西側。
敷地に勾配がある場合はこのように勾配にそって段差が設けらます。
敷地に勾配がある場合はこのように勾配にそって段差が設けらます。
そして南側の辺。奥に見える階段を上って右の扉を入れば教会堂です。
回廊の東側にある、修道士達の寝室。
このような各部屋の配置構成は、方位の違いはあるものの、3つの修道院すべてに共通しています。にもかかわらず、その印象には驚くほどの違いがある。というか、だからこそ3つそれぞれの違いが際立って感じられる。音楽で言えば、同じ曲でも指揮者が違えば全く違って聞こえるのに似ています。
どのくらい違うかというと…この後に載せるル・トロネ修道院とぜひ比べてみてくださいね。
2011/03/17
セナンク修道院
南フランスプロヴァンス地方に点在する、約800年前に建てられた3つのシトー会の修道院。
「セナンク修道院」「シルヴァカーヌ修道院」「ル・トロネ修道院」。3つ合わせて「プロヴァンスの三姉妹」と呼ばれています。この3つの修道院を巡ることは今回の旅の主な目的のひとつでもあり、人気の少ない山道を登って訪れた修道院は、旅のラストを飾るまさに山場!でした。
ゴルド村から北に山道を行くこと約5キロ、最初に訪れたのはセナンク修道院。人里から離れた山の間に、ひっそりと建っています。建てられたのは1160頃-13世紀初頭、プロヴァンス三姉妹の中では次女にあたります。
「修道院を都市や村落に建ててはならない。人里離れた、往来しがたい場所に建てること」というのがシトー会の規則。
現在でも交通の便は決していいとは言えず、車がなければ訪れるのに丸一日はかかるという立地ですが、そのおかげで、約800年経った今でも周囲の環境も含めて当時とほとんど変わらない姿を保てています。
目の前は一面ラベンダー畑になっています。セナンク修道院といえば、一面のラベンダーに囲まれた風景が有名ですが、まだ冬なので咲いておらず…。
シトー会の修道院は、「暗闇」に重きを置いているような気がします。そこに差し込むわずかな光が大切に扱われている。
そして、セナンクに来る前に同時代に建てられた教会をいくつか見てきましたが、それらと比べると石の積み方が非常にきれいです。表面がぴしっとそろっていて、石の角も肌を切られそうなくらいくっきりと立っています。
この修道院を作ったシトー会は、1098年に創設された新興の会派で、当時主流であったクリュニー会の贅沢主義とは生き方を異にし、貞潔・清貧・服従を旨とし、規則を厳格に守る会派だったらしいです。その厳格さが、空間全体からも感じられました。
修道士達の寝室。毎夜ここに枕を並べ、晩の8時に寝て夜中の2時前には起きていたそうです。
その厳格さゆえに、シトー会士で28歳を越えて生きる人はまれであったそうです。それもそのはず、食事は一日に1度か2度、雑穀の黒パンと味付け無しのゆで野菜のみ、量もわずか。寝るときは温かい布団などあるはずもなく堅い床に雑魚寝をし、過酷な労働と飢えに苦しむ生活でした。普段は言葉を交わすことも許されず、夜は教会堂に集ってマリアをたたえる歌を唱和していました。そして、誰かが息を引き取るときだけは、全ての作業をやめてその周りに集い、兄弟の死にゆく姿を静かに静かに見守ったといいます。
帰って来てから、あの空間が語りかけるように心に響いてきたのはなぜだろう、と考えていたとき、昔、映画「おくりびと」で出てきた「石文(いしぶみ)」という行為を思い出しました。
「石文」とは遙か昔人が言葉を持たなかったころの、自分の想いを相手に伝えるための手段のひとつで、言葉のかわりに「石」を渡したのだそうです。贈る側は、色、形、感触など無数にある石の中から自分の気持ちにピッタリの石を選び、石に心を吹き込む。もらった側は、その石を見て、相手の感情や気持ちを読み取るのだそうです。映画では、主人公が妻に送るための石を、しっかりと握って思いを込めている姿がとても印象的でした。
道ばたに落ちていたにすぎない一つの「石」が、贈られる人にとってかけがえのないものとなるのは、その石の背後に、贈ってくれた「人」を感じることができるからだと思います。
この修道院でも石文と同じように、装飾をそぎ落とした空間や端正に積まれた石、その風化した表面を見ていると、遙か昔のシトー会士達の祈りの情景やその思い、人柄や彼らの生活が自然と思い浮かんできました。
石の表面には、当時この石を切り出した石工達が刻んだイニシャルがいくつもあります。こんなところからも、当時の人々の姿が目に浮かんできます。
「人」を感じさせる空間だった、と思います。
その理由を、もっとうまく説明できればいいのですが…
思い返せば、これまでに心から共感した、あるいは感動した物や建築はほとんどがそういうものだった気がします。つまり、「人を感じられるデザイン」になっていた。
物自体も美しいけれど、実はそれ以上にその背後に感じられる「人」に心を惹かれている。こういうことって、建築に限らずけっこうあると思うのです。カイロの夜景でもそうでした。心打たれるものの背後には、必ず「人」がいるんじゃないか。セナンク修道院を思い出しながら、そんなふうに感じました。
「セナンク修道院」「シルヴァカーヌ修道院」「ル・トロネ修道院」。3つ合わせて「プロヴァンスの三姉妹」と呼ばれています。この3つの修道院を巡ることは今回の旅の主な目的のひとつでもあり、人気の少ない山道を登って訪れた修道院は、旅のラストを飾るまさに山場!でした。
ゴルド村から北に山道を行くこと約5キロ、最初に訪れたのはセナンク修道院。人里から離れた山の間に、ひっそりと建っています。建てられたのは1160頃-13世紀初頭、プロヴァンス三姉妹の中では次女にあたります。
Abbaye de Sénanque
現在でも交通の便は決していいとは言えず、車がなければ訪れるのに丸一日はかかるという立地ですが、そのおかげで、約800年経った今でも周囲の環境も含めて当時とほとんど変わらない姿を保てています。
目の前は一面ラベンダー畑になっています。セナンク修道院といえば、一面のラベンダーに囲まれた風景が有名ですが、まだ冬なので咲いておらず…。
教会堂入り口。
教会堂
シトー会の修道院は、「暗闇」に重きを置いているような気がします。そこに差し込むわずかな光が大切に扱われている。
そして、セナンクに来る前に同時代に建てられた教会をいくつか見てきましたが、それらと比べると石の積み方が非常にきれいです。表面がぴしっとそろっていて、石の角も肌を切られそうなくらいくっきりと立っています。
この修道院を作ったシトー会は、1098年に創設された新興の会派で、当時主流であったクリュニー会の贅沢主義とは生き方を異にし、貞潔・清貧・服従を旨とし、規則を厳格に守る会派だったらしいです。その厳格さが、空間全体からも感じられました。
修道士達の寝室。毎夜ここに枕を並べ、晩の8時に寝て夜中の2時前には起きていたそうです。
中庭を囲む回廊。
回廊から、教会堂を見る。
一生を修道院で送る修道士達にとって、回廊は唯一外界と接することができる場でした。その厳格さゆえに、シトー会士で28歳を越えて生きる人はまれであったそうです。それもそのはず、食事は一日に1度か2度、雑穀の黒パンと味付け無しのゆで野菜のみ、量もわずか。寝るときは温かい布団などあるはずもなく堅い床に雑魚寝をし、過酷な労働と飢えに苦しむ生活でした。普段は言葉を交わすことも許されず、夜は教会堂に集ってマリアをたたえる歌を唱和していました。そして、誰かが息を引き取るときだけは、全ての作業をやめてその周りに集い、兄弟の死にゆく姿を静かに静かに見守ったといいます。
帰って来てから、あの空間が語りかけるように心に響いてきたのはなぜだろう、と考えていたとき、昔、映画「おくりびと」で出てきた「石文(いしぶみ)」という行為を思い出しました。
「石文」とは遙か昔人が言葉を持たなかったころの、自分の想いを相手に伝えるための手段のひとつで、言葉のかわりに「石」を渡したのだそうです。贈る側は、色、形、感触など無数にある石の中から自分の気持ちにピッタリの石を選び、石に心を吹き込む。もらった側は、その石を見て、相手の感情や気持ちを読み取るのだそうです。映画では、主人公が妻に送るための石を、しっかりと握って思いを込めている姿がとても印象的でした。
道ばたに落ちていたにすぎない一つの「石」が、贈られる人にとってかけがえのないものとなるのは、その石の背後に、贈ってくれた「人」を感じることができるからだと思います。
この修道院でも石文と同じように、装飾をそぎ落とした空間や端正に積まれた石、その風化した表面を見ていると、遙か昔のシトー会士達の祈りの情景やその思い、人柄や彼らの生活が自然と思い浮かんできました。
石の表面には、当時この石を切り出した石工達が刻んだイニシャルがいくつもあります。こんなところからも、当時の人々の姿が目に浮かんできます。
「人」を感じさせる空間だった、と思います。
その理由を、もっとうまく説明できればいいのですが…
思い返せば、これまでに心から共感した、あるいは感動した物や建築はほとんどがそういうものだった気がします。つまり、「人を感じられるデザイン」になっていた。
物自体も美しいけれど、実はそれ以上にその背後に感じられる「人」に心を惹かれている。こういうことって、建築に限らずけっこうあると思うのです。カイロの夜景でもそうでした。心打たれるものの背後には、必ず「人」がいるんじゃないか。セナンク修道院を思い出しながら、そんなふうに感じました。